「な、な、何よこれーーーーー!!!!!!」 長い長いトンネルの中をリデルの声が響き渡る。 リデルよりも下にいた時計ウサギは彼女を見上げた。 「あんまり騒ぐと舌噛んじゃうよ。落ち着いて、深呼吸して」 「出来ないわよ!」 二人の声がぐわんぐわんと反響する。 いざワンダーランドへと家を出たのがほんの数十秒前。 銀世界へと足を踏み出した途端、嘘みたいに地面の感覚がなくなって。 時計ウサギとリデルは仲良く重力に従った。 つまりは目下、彼女らは落下中であった。 curtain call 1:ワンダーランド、ハートの国 「何処に行く気なの!?」 「くどいなあ。何回言えば分かるのさ」 「地下にあるなんて聞いてないわよ!」 「別に地面の下にあるわけじゃないよ。たまたま通路が下向きなだけで」 同じことでしょうが、と言おうとしたリデルの顔のすぐ横を、ひゅっと何かが掠めた。 思わず口を噤む。 視線で追ったが物体は既にはるか上空へと姿を消しており確認する事は出来なかった。 「い、今の、何?」 「ポットかな」 仕方がないので時計ウサギに聞けばいとも簡単に正体が明かされる。 「ポット?」 「気をつけて。ポットくらいなら良いけど、大きい奴は流石にぶつかると痛いと思うよ」 「何を言って…」 「ほら、来た!」 時計ウサギが楽しそうに前方を指差した。 リデルは目を疑った。 穴の中を真っ逆さまに落ちていく二人の行く手には様々な物が浮いている。 スプーンにカップ、ポットならまだ可愛いもので、椅子にテーブル、食器棚、はてはベッドと 完全にインテリアショップのごとき品揃えである。 それらが勢い良くリデル達へと向ってきているのだ。 「あれ避けろって言うの!?」 「男ならそうだけど今回はレディーだからね。いくよ、しっかり捕まって!」 「わっ!」 ぐいっと物凄い力で引っ張られ、リデルは時計ウサギの胸元まで近づいた。 そのまま彼女の背中へと腕が回されしっかり抱き締められる形になる。 体勢をはっきり認識する間もなく、ルームランプが点滅しながら傍を通っていった。 身の危険を感じて必死に男にしがみつく。 銀色のナイフとフォークが視界の端を過ぎ去った為更に目も瞑った。 とにかく早く此処を抜けたいというその思いだけを込めて。 ワンダーランドがどんな場所だろうとこんな空間よりはマシだろう。 時計ウサギが一瞬何かに着地し、それを蹴り飛ばした。 針が止まったままの柱時計を踏み台に落下速度をあげる。 痛いぐらいの風を感じたリデルはますます硬く目を閉じた。 最早本当に話すこともままならない。 時計ウサギは慣れた様子で、首を傾けてソーサーを避け体を捩ってソファを見送る。 お屋敷にあるような長テーブルの上を体の側面で滑るようにして落ちながら くっついていた大きな燭台に足を引っ掛けて減速し反動で体を起こす。 時計ウサギはリデルを抱えたまま燭台に腰掛ける形になり、 その背後すれすれをチェストが抜けていった。 「うん。こんなものかな」 耳元で呟かれた台詞に、リデルは恐る恐る目を開ける。 「お、終わった…?」 「そうみたいだよ」 確かにさっきのチェストを最後に辺りは静かになった。 もう何かが飛んでくる気配はない。 安堵の溜め息をつく彼女に対し、時計ウサギはにっこりと微笑んだ。 「さあてそれでは改めて」 「え?」 「一名様、ごあんな〜い!」 「え、え、え、」 リデルの背中に回した手はそのままに一気に体を後ろに倒す。 当然ながら、燭台に背もたれなんてついているわけがなく。 「えええええーーーーーー!!!!」 再び少女の悲鳴を響かせながら、二人は一直線に穴の中を落ちていくのだった。 ◆ ◆ ◆ 突然に穴は終わりを告げて、光がいっぱいにリデルの前に広がった。 次に見えたのは石畳。 来るべき衝撃に身構えた彼女を包んだのは奇妙な浮遊感であった。 「…?」 瞑った目を片方ずつ開ける。 どうやら少女は宙に浮いており、石畳に直撃する事態は避けられたようだ。 訳が分からないままゆっくりと地面に降り立つ。 傍らに時計ウサギが着地した。 「今、浮いてた…?」 「そりゃ、せっかく来たのに頭打つなんて嫌でしょ?」 「っていうかこんな事出来るなら初めからやれば良かったのに!」 「僕の力じゃないよ。ワンダーランドの力だよ」 「あ、じゃあ、此処が?」 「そう!」 時計ウサギは嬉しそうにリデルの前に進み出ると、名乗った時のように恭しく会釈をする。 「ようこそ!ワンダーランドへ!」 彼の背後には巨大な城がそびえたっていた。 壁は全て純白で、天を貫くように尖った屋根は真紅に染まっている。 ところどころに薔薇をモチーフにした装飾や天使像のような物も見受けられた。 赤と白のコントラストに光が差し込んで眩しい。 うっすら、ピンク色の霧のようなものが城の周りに漂っており それがまたキラキラと日光を反射している。 美しい城だった。 リデル達の位置からは見えないが、反対側には湖があって湖面に城が映りこんでいる。 城門も勿論壁と同じく汚れ一つ無い白色に真紅の装飾が施され 中央には大きなハートが上下逆さに繋がった紋章がついていた。 両側には、門番だろう、長いピンク色の槍をもった兵士が一人ずつ立っている。 「お帰りなさいませ!」 「いらっしゃいませ!」 ピンと背筋を伸ばしてそう叫んだ兵士を、リデルは興味深く見つめた。 肩と腰回りを守る濃い赤色。手と足にはまっているのも同色。鎧なのだろう。 しかし一番重要な上半身はその赤の金属には覆われていない。 そこにあるのは、ハートのトランプだった。 一枚の大きなハートのトランプを体に貼り付けている。そんな見た目なのだ。 顔はやはり濃い赤の兜に覆われて口元しか見えない。 再び時計ウサギに手を引かれて立派な門をくぐる。 兵士の傍を通る時、リデルはぎょっとした。 肩と手の金属を繋いでいる腕の部分が異様に細い。 とても人間の腕などが入っているとは思えない、ただの鉄棒のような細さ。 (…人じゃ、ないのかしら) 何となく薄気味悪く思いながら、もう一度だけ姿を見ようとリデルは振り向いた。 背中もやはりハートのトランプだった。 ◆ ◆ ◆ 広々とした空間。高い天井。人が何十人も乗れそうなくらいのシャンデリア。大理石の床、壁、柱。 真っ赤な絨毯が真ん中に長々とひかれている。 いかにもな、絵に描いたような大広間に、リデルは感嘆の声をあげた。 「凄い!本物のお城みたい!」 時計ウサギが心外そうな顔をした。 「本物だよ。まだ疑ってるの?」 「だって…ねえ。ワンダーランドなんて」 「こんなに不思議な事が次々起きてるってのに。頑固だなあ」 柔らかな絨毯の上を歩きながらきょろきょろと辺りを見回す。 絨毯の両脇には、びっしりと薔薇が敷き詰められていた。 更にその向こう側には先ほど見た門番と同じ格好の兵士がずらっと並んでいる。 「ねえ、この薔薇は?」 「女王様がお好きでね。とても大切になさってるんだ」 「へえ。それでこんなに沢山」 「毎朝女王様のご気分によって、色を塗り替えるんだよ」 「塗り替える?薔薇の色を?」 「ペンキでね!」 「!?」 薔薇達は一つの花弁すら萎れる事なく瑞々しく咲いている。 流石に嘘だろうと思ったがあまりに堂々と言われたので何も言えなかった。 しかし一方で妙に納得してしまった部分もある。 大広間の入り口から最奥まで途切れることなく咲く薔薇が、一つ残らず真っ黒だったからだ。 完全に漆黒の色をした薔薇が存在するなど聞いたこともない。 造花という風にも見えない。 (ワンダーランドだからってことなの?) ペンキの話はさておいても。 道中の家具が浮かぶ穴、そこから抜けた際の浮遊、奇妙な兵士、ありえない色の薔薇。 どれもこれも余りにリデルが暮らす世界とは異なり、彼女の常識を逸脱していた。 口では信じられないと言いながらもリデルは少しずつ起きている事を受け入れ始めていた。 少なくとも此処には、自分の物差しで計ることが出来ない物が溢れている。 時計ウサギが足を止めた。 リデルもそれに倣う。 いつの間にか彼らは大広間の最奥まで辿りついていた。 数段の段差をつけて、手摺の部分に黒い薔薇が絡みついた金色の大きな椅子。 背もたれの部分にはハートの紋章が描かれている。 「女王様の、おな〜りぃ〜!!!!」 突如、ラッパの音が何重にも吹き鳴らされ兵士の声が響き渡った。 さっと時計ウサギが跪く。 玉座の右奥にあった真っ赤なカーテンがさっと左右にわかれ、中から人影が現れる。 時が止まったかのようだった。 それほどに緩やかに静々とその人物は歩みを進め、優雅な仕草で玉座に腰をかける。 そして立ち尽くしているリデルに向けて女神のように温かく微笑みかけた。 黒いルージュを引いた唇が上品に弧を描く。 「ようこそいらっしゃいました。わたくしこの城の主、ハートの女王で御座います」 リデルははっとして、慌ててぎこちなくスカートを摘みお辞儀をした。 「リ、リデルです!」 「あらあら。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」 「あ、は、はいっ!すいません…」 どうしたらいいかわからず赤面してしまう。 横からくすりと忍び笑いが漏れた気がしたので取り合えず後頭部を睨んでおいた。 「道中、大変だったでしょう」 「はい…まあ…」 「急にお呼びだてして申し訳ありませんでした。こちらにも事情があったものですから」 「?」 「実は貴女をお呼びしたのには、重大な理由があるのです」 「理由…ですか?」 「聞いていただけますか?」 「は、はい。勿論…」 「それではこちらへ」 「…えっと…失礼、します」 女王に手招きをされ、戸惑いながら段差を上がった。 導かれるままに玉座の隣で跪いたリデルの耳元にそっと女王が唇を寄せた。 ふわっと薔薇の匂いが香る。 声に混じった深刻な雰囲気と距離と香りにリデルの心拍数は確実に上昇していた。 ごくりと生唾を飲み込む。 実は、と艶めかしい声が耳に入ってくる。 「今日此処に貴女をお呼びしたのは他でもありません」 「…はい」 「心して聞いて下さいね」 「はい」 「私達は、貴女に」 「はい」 「魔王を倒してきて欲しいのです!」 瞬間、沈黙。 何ですって? 「すいません、聞こえなかったのでもう一度」 「魔王を倒しこの世界を救ってほしいのです!」 「あ、ちゃんと聞こえていたみたいです」 「では行って下さいますね!ご武運を!」 「いやいやいや!?」 「ご武運をー」 「黙ってウサギ!」 礼儀作法だとか失礼に当たらないようにだとか。 頭の中をぐるぐるしていたものがまるっきり頭からすっ飛んでしまった。 それくらいにはリデルは混乱していた。 取り合えず余計な茶々をいれる時計ウサギを一喝してから、 先ほどまでの妖艶な空気は何処へやら、子供のようにきょとんとしている女王様に向き直る。 「あの、一から説明をしていただきたいんですけど」 「ですから、貴女に魔王を倒してきてもらいたいのです」 「その魔王の説明からお願いします」 まあ。と女王は優雅に口を手元に当てた。 「名は赤の王。この世界を支配しようとしているそれは恐ろしい存在です」 「はあ」 「非常に強力な魔法の使い手で、その力は大地を揺るがし、嵐を呼び、森を一瞬で火の海にします」 「それはまた…随分と…あれですね」 「何よりも恐ろしいのは守護竜の存在です」 「しゅご…?」 「ドラゴンですわ。赤の王は自由自在に使い魔を召喚出来ますが、中でも最も強大な力を持つ魔法生物。それが守護竜なのです」 「ど、ドラゴンですか」 「何千何万というわたくしの兵士達が薙ぎ払われ、命を落としてきました。 わたくしは誓ったのです。儚く散っていった彼らの為にも必ずやあの魔王を打ち倒し、世界に平和を取り戻してみせると!」 いつの間にか女王の話は大演説のようになり、時計ウサギと兵士達が一斉に拍手をした。 広間の中は割れんばかりの拍手が鳴り、ラッパが吹かれ、何処からか紙吹雪まで飛び出す始末。 状況にか騒々しさにか、リデルはこめかみを強く抑えた。 やがて女王がスッと片手をあげると嘘のように大広間は静まり返った。 「女王様、質問しても良いでしょうか」 「なんなりと」 「それでどうして…私が呼ばれたんでしょう」 まあ。と女王は優雅に口を手元に当てた。 癖なのかもしれない。 「悲しいですが、赤の王は外の世界の人間にしか倒せない決まりになっているのです」 「決まり?」 「そういうわけで、貴女に白羽の矢がたったというわけなのですわ」 がっちりと両手でリデルの手を掴み、真っ直ぐに見つめてくる。 黒い瞳の煌きに誘われ頷いてしまいそうになるのを振り払うようにリデルは被りを振った。 女王は一応回答したが、実際には何も説明されていないのと同じ事だ。 『魔王』がいかに恐ろしいかだけ熱心に強調され、決まりだからお願いしますでは話にならない。 いくら一国の女王が相手とはいえ此処は断固断らなければ。 「申し訳ないんですけど、私には荷が重…」 「あら、拒否権なんてありませんのよ」 「えっ」 「貴女は魔王を倒さないと元の世界には帰れません」 「えぇっ!?」 衝撃の事実を知らされ、時計ウサギに視線をやる。 「聞いてないわよ!?」 「言ってないもん」 さらりと返されてしまった。 「ご武運を、祈っておりますわ」 先ほどまでは綺麗だとばかり思っていた笑顔が一気に有無を言わさない圧力に変わる。 力強く丁寧に、言い含めるように言われてリデルはやっと理解した。 この決定事項に抗う事は不可能なのだ、と。 力なく項垂れる仕草は女王の中では最上級の了承であったらしい。 大喜びでリデルを抱き締め涙を流さんばかりに歓喜の声を上げ礼を述べた。 リデルの方はといえばもう為すがまま、乾いた笑いも出てこない。 一頻り喜びに浸った後で、女王がさてと切り出した。 「そうとなれば護衛がいりますわね」 「護衛…ですか?」 「パーティはファンタジーの基本ですから。時計ウサギ」 「はい」 「適当な者を見繕って紹介状を。…そうね、帽子屋達にしようかしら」 帽子屋、という単語に時計ウサギがぴくりと反応する。 「あの二人、ですか」 「どうせ今日もお茶会でしょうから」 「…了解しました」 一礼して踵を返す。 少しだけ見えた表情が苦々しいものだったような気がしてリデルは目で追った。 彼は赤い絨毯の上を早歩きで去っていき、あっという間に大広間から姿を消した。 「リデルにはこれを差し上げましょうね」 そう言うと女王は首に下げていたネックレスを外し、リデルの掌の上にそっと乗せた。 それは黄金のハートだった。 金の棒を編んで出来たハートで中身が見えるようになっている。 中には透き通った丸い宝石。 持ち上げて翳すと淡く金色の輝きを放つ。 「綺麗…」 「お気に召しましたか?」 「はい、とても」 「お持ちになって。きっと何かの役に立つでしょうから」 「有難う御座います」 自らの首にネックレスをかける。 胸元の宝石を改めて握ると不思議と力が湧いてくるように思えた。 不思議な世界の女王様の宝石だ。 何か特別な力があるのかもしれない。 大広間の扉が開き、時計ウサギが戻ってきた。 出て行った時と同じく早歩きで絨毯の上を歩いてくる。 二人の目の前でぴたりと止まり、一礼してからリデルに封筒を差し出した。 「リデル、これを」 「これは?」 「紹介状だよ。じゃ、頑張って」 魔王退治などというものに行かされる割には随分と軽い挨拶である。 どうやら彼はこれ以上ついていくつもりは無いらしい。 「一緒に行ってくれたっていいのに」 「いや僕は、ちょっと」 「帽子屋達が苦手なのですよ」 言い淀む臣下の代わりに女王がにこやかに言葉を紡いだ。 余計な事を言われ時計ウサギが顔をしかめる。 「馬が合わないだけです」 「ふふ、そういう事にしておきます」 リデルはさっきちらりと見た表情を思い浮かべた。 あの苦い顔にはそういう意味があったようだ。 いきなり一人になってしまうのは心細いけれど、事情があるのなら仕方がない。 あんな顔をするくらい苦手な相手のもとへ無理矢理連れていくのも可哀想だろう。 受け取った白い封筒に目を落とす。 自分の護衛をしてくれるらしい人物、帽子屋。 一体どんな人物なのだろうか。 (大抵の妙なことにはもう驚かないと思うんだけど) 「しょうがないなあ。じゃあ行ってきます」 「悪いね」 「この城を出たら薔薇の道に沿ってまっすぐです。すぐ分かるでしょう」 「はい」 「行ってらっしゃい」 段差を降りたリデルはくるりと女王達の方を向き、スカートを持ち上げて会釈をした。 そして赤絨毯の上を真っ直ぐに進んでいく。 花の群れと、綺麗に並んだ兵士達に見守られて。 大広間の扉を押し開けて外へと出る小さな背中を女王はじっと見つめていた。 薔薇と同じ漆黒の唇が美しく弧を描く。 「お気をつけて」 戻る |